明日は、バタバタしそうなので、一足先に、思いを馳せたいと思います。
13年前のあの日は、福島労働局の勤務日でした。
古い庁舎の5階は、1回目と2回目の揺れの間を感じることなく、
とても長い時間に感じました。
揺れの間にも、留守番をしている子どもたちの安否を考えていました。
駐車場に誘導され、薄曇りで雪がちらつく中、そわそわとした時間が流れました。
1時間ほど経ってからでしょうか。年長の嘱託職員さんが、
「若松さん、今、帰りなさい。きっと、帰れるから」
と声を掛けてくれました。
私が55キロ離れた所から車通勤していることを知った上でのアドバイスでした。
その言葉を信じ、運転を開始。
車のテレビからの津波の映像が流れ、所々、家の壁や屋根、塀が崩れていて、
そわそわはピークに達していました。
バイパスに出るとそわそわは的中。大渋滞を起こしてしました。
「帰れないのか…どうしよう…」
山からの迂回を決断します。
その道も、あの年長の職員さんが、
「渋滞したときに使うとよい」
と教えてくれた道でした。
バイパスの渋滞原因がわからないため、いつもより長く、山を走る決断をし、
半分くらいの地点でバイパスに戻ると、渋滞からは抜けており、
そこからは、信号機も止まっていたため、ほぼ、高速道路並みに優先道路として
走り切りました。
その間、何度も家に電話しましたが、当然に回線は不通。
最後の最後の交差点で、山形の私の母につながりました。
そこで、娘たちは二人とも無事であることを確認できました。
後で知ることになりますが、バイパスの渋滞は、
がけ崩れで、住宅が何軒もバイパスに向かって崩れていました。
私は今でも、私を導いて下さった、職員さんに感謝しています。
もはや、神様だと思っています。
あの言葉と、常日頃のアドバイスがなければ、
私は、きっと、深夜になっても家に帰れず、ガス欠を起こしていたと思うのです。
嘱託1年目の方なので、61歳だったと思います。
私もその年齢に近づきつつありますが、
誰かのために、大きな決断を促せるような大人になれているという自信はありません。
これまで生きてきた「経験」と「知恵」そして、
「相手を思う気持ち」と「勇気」と「冷静さ」
そのすべてをの備えた、アドバイスだった思うのです。
大地震から得たものは、たくさんありましたが、
私の中で、この「感謝」を超えるものはありません。
ありがとう「Kさん」
私はまだまだ未熟者だけど、
ちゃんと社労士として頑張っているよ
って伝えたいです。
連絡先はまったくわからないので、いつか、このブログが届かないかな~~
と思っています。(たぶん、過去にも同じような記事を書いたので)
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